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 靴や服にペイントしたりペンダントを自作したりと、溪は独自のオシャレを楽しんでいたそうです(モデル:溪の実弟、佐藤八郎氏)

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 自筆の放浪地図(部分)。1回目の放浪は2年におよび、北は北海道から南は沖縄まで全国をくまなく渡ります

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 佐藤溪の絵の具箱の中身(部分)。さまざまなものが乱雑におさめられています

新聞に紹介された「箱車」

   新聞に紹介された「箱車」〈 出典:朝日新聞1949年5月4日 〉。
   京橋公園で箱車に集う子供たちと中で絵を描く佐藤溪

 佐藤溪の紹介を映像でご覧いただけます(約15分)

 

佐藤溪は、1918(大正7)年、広島県安芸郡熊野町に生まれました。本名は忠義(ただよし)。六男二女の一番上の長男でした。実家は元来熊野筆の製造卸をしていましたが、のちに名人と呼ばれるほどの釣り好きの父親が、筆の製造を釣り竿の製造に切り替え、同時に一家で東京に移り住みました。

 

忠義は小さい頃から絵が好きで、小学校で図工の成績が満点でした。一時は小石川工業学校の機械科に入りますが中退し、川端画学校に学びます。

 

そのうち日中戦争が始まり、21才で徴兵され中支へ。太平洋戦争時には南洋へ送られるなどして、27才までの大半を戦地で過ごします。ポナペ島など戦争末期の南洋は、玉砕の相次いだ激戦地でした。後の『小伝』という詩の中では、「兵隊ではひでェ目にあひ」と書いています。

 

復員後は島根県出雲市に疎開していた家族の元に落ち着きました。この頃は詩作に精を出し、出雲市の図書館で詩稿の展覧会も開いています。“溪(けい)”はこの時につけたペンネームです。宮沢賢治を敬愛していたようで、その影響を受けた作品が数多く見受けられます。やがて、小伝にも書いているように「主として面倒くさい小説なんか書かなければ食えないことを理解」して「すこしはましな画業に専心」するようになり、自由美術家協会展に作品を送るようになります。

 

そして1948(昭和23)年、初入選をきっかけに東京に移り住みます。京橋の公園に伝説的な箱車住まいを始めるのは、上京後まもなくのことだったようです。

 

井上長三郎が、当時の雑誌に溪の箱車での様子を描写しています。「それは二坪たらずの車のついた小屋である。彼に云わすと、夏はプラタナスの蔭に、冬は日当たりのいい斜面へ、そして美しい風景をアトリエから展望する。(中略) 彼は天真爛漫、子供の如く得意である。空襲や火事の際は家財とともに逃れる。」(無名作家点描「アトリエ」1949年7月号) 珍しがられたのか、朝日新聞にも紹介記事が出ました。その切り抜きは佐藤の遺品の中に残っていました。

 

1949(昭和24)年には、森芳雄、山口薫、鶴岡政男らの推薦により自由美術家協会会員となります。美術団体の展覧会に参加したり個展を4回も開催したりと、画家・佐藤溪の最も華やかな一時期といってよいかも知れません。

 

しかし一転、1950(昭和25)年から、死に至る10年間は、佐藤生涯の中でもっとも謎の多い時代です。京都の大本教から一軒家をあてがわれ亀岡に住んでいたり(本人自身が信者だったわけではないらしい)、自由美術家協会もそのうち退会してしまいますが、理由は先輩と喧嘩をしたからとか女性絡みで事件を起こしたからとか、その真相は不明です。

 

亀岡の後は神戸に移り住みますが、ここでの生活もよくわかっていません。ただ、絵を描き続けていたことは確かで、1952(昭和27)年には大阪で個展を開いたり、島根新聞にスケッチと文の連載を出したりしたことが知られています。また、この時代には自らを“芸術教の教祖”と名乗ったりもしていたようです。

 

そして1954(昭和29)年10月に関東に戻り、翌年の春から2年にわたる長い放浪の旅に出ます。似顔絵描き、易者、傘直し、鍋の鋳かけなどをして、道中の旅費を稼ぎながらの旅だったようです。

 

その後、改めて沖縄から北上する長い放浪もしていますが、ついに沼津で脳卒中の発作を起こして倒れたのが1959(昭和34)年の秋のことでした。連絡を受けた父親が引き取りに行き、両親と弟たちが住む大分県の由布院へ運ばれました。母の看病を受けながら自宅療養を続けましたが、翌年の1960(昭和35)年12月30日に息を引き取りました。享年42歳。
(参考文献:東京ステーションギャラリー佐藤溪展図録/(財)東日本鉄道文化財団発行)