溪さんへの手紙 1

 佐藤溪さん、私、あなたにききたいことが沢山あります。文句も言いたいです。
 二十代の頃から、自分は四十代で死ぬだろうと言ってらしたそうですね。何故? そして本当にそうなった。放浪中に沼津で倒れ、はじめは何処の誰とも解らず、行き倒れとして扱われていたそうですね。誰にきいてもあなたの酒量の多さが話題になります。体を壊すほどに飲まずにはいられなかったのは何故?
 こうもり傘の修理をしながら日本中を二度も放浪して、あんなにも沢山のスケッチを残されたこと、ありがとうございます。でも日付や地名がほとんど記されていません。何故? これが解ったらもっと面白い展覧会も出来るし、作品の整理もしやすいのに。せっかくの油絵もほとんどがベニヤ板に描かれ、いつまで保存できるかとても心配です。
 お金が無かったのだから仕方ありませんよね。文句ばかり言ってごめんなさい。それから詩を焼いてしまったって本当ですか。私の手元に自筆の詩は三点しかありません。もったいない。でも、どうしてなのですか。あなたの詩はとても人気があるのですよ。もしかしたら絵よりも、なんて言ったらお気に障ります?
 あなたの絵を見ていると、どうして?とか、私はこう思いますけどいかが?とか、いろいろ質問が出てきます。
 よくきかれます。あなたの絵との最初の出会いは何時で何処か、そして何が私をここまで虜(とりこ)にしたのか、と。いつもうまく説明できなくて困っています。金鱗湖の近くに弟さんがつくられた美術館へ初めて行ったのは、一九八四年のことだったと思います。あの日のことは忘れません。農家の家の壁だけを改装した、質素で静かな良い美術館でした。縁側には快い日差しが降りそそぎ、畳の上を歩いて絵を見るなんて、とても優しい感じでした。
 ところが居並ぶあなたの絵から発する何やら妖しい波長が私の体内に流れ込み、周りとのあまりの違和感にうろたえ、立っていられない、いたくもない、そんな気持ちがしたのを今も鮮明に憶えています。顔の中心から放射状に後頭部へサーッと血の気が引くような感覚を味わいました。それは子供の頃、暗い廊下の隅から影らしきものが動いたように見えて怯えた、あの思い出に似ています。私は普段、目と脳で絵を見ていますけど、何故かあなたの絵は目と心で見てしまいます。とは言え、結局は脳が刺激を受け、心臓に伝達しているのでしょうけれど。そんな理屈は抜きにして、脳で考える暇無く心で感じてしまうということなのでしょうか。
 美術館のリーフレットに、あなたの絵のことを「或る時は繊細かつ緻密に、或る時は大胆かつ無造作に、また妖艶と思えば無邪気、明朗と思えば暗鬱というように、画家の自由な精神と感情の起伏がそのまま表現されています」と書きましたが、合っていますか。本当に一人の人が描いたとは思えない、気紛れとしか言えないほどにタッチも違えば表現も違う。それが私をとまどわせながら、魅きつけて止まないところでもあるのです。
 子供の頃からよく展覧会に行っていましたが、絵を買う趣味のなかった私が、あの時、あなたの絵を一枚でも良い、欲しいな、身近に置いて、いつも見ていたいなと思いました。そこで、受付にいらした弟さんに「お売りになりますか」とおたずねしたら、「あまり売りたくありません」と答えられ、私もそうでしょうねと引き下がりました。それが二年後には、そのすべてを譲り受け、さらに五年後には新しい美術館まで建ててしまうとは、これがよくいう縁というものなのでしょう。
 ところでこの美術館、いかがですか。大好きな象設計集団に、あなたの日となりや、湯布院らしさを大切に設計して頂きました。設計に二年、建築に二年もかかって、一九九一年七月に出来上がりました。あなたの短い人生の最期の地である湯布院町の由布院盆地の真ん中、由布山に抱かれ、大分川沿いという良い環境に恵まれて、楽しく優しい空間となりました。実は私、心配していたのです。あなたは自分の美術館が出来るなんて、お嫌なのではないかと。でもあなたのお友達の田辺明さんを出雲へお訪ねした時、その話をしましたら、「溪は自分で手書きのポスターをつくってよく個展をやっていたくらいだから、きっと喜んでいますよ」とおっしゃってくださり、安心いたしました。私も、創作者はその成果を人に見せたい欲望が絶対にあると信じています。本当はあなたの絵を自分だけで見ているほうが楽なのですけれど、好きな絵をより多くの方により良い状態で見て頂きたいという思いから、移転新築をしてしまいました。
 あなたの絵もあなた同様、放浪して、あの最初の美術館から三度も引越しをして、やっとここに収まったのです。私はもちろん良き協力者である家族も、この新しい美術館が大好きです。でもまだまだ不十分なところも多く、これから育てていかなければなりません。それにはあなたのことをもっと詳しく知る必要があります。それであなたのお友達をお訪ねしたり、あなたが住んでいらした所へ行ってみたりしております。
 四十二歳で亡くなるなんて早すぎます。青春時代を、七年間も戦地で過ごされて大変でしたね。でもそれが絵や詩の糧になっているのには頭が下がります。激しい恋をし、心傷つき、相手の人を本当に傷つけてしまったそうですね。『富士恵像』を見ていると、あなたの想いの深さを感じます。あなたも苦しかったでしょうが、母親である私はあなたのお母上のお気持ちも察してしまいます。けれども優しいあなたが、映画でも見てくださいと、旅先からいくらかのお金と手紙を送っていられたと知ってほっとしました。
 あなたは自らを芸術教の教祖と名乗って名刺まで作っていますね。それはジョークではなくて真面目だったと聞いています。布教もされたのですか。聞きたいことばかりです。  絵を見るたび、詩を読むたび、いろいろ問いかけていますのに、あなたはなかなか返事をしてくれません。教祖様、私にあなたを知る力をお与えください。「知らなくたっていいよ」と、あなたは言われますか。でも、溪さん、知りたいですよ。何故か、私はあなたの美術館をつくってしまったのですから。

〈 高橋鴿子、出典:佐藤溪詩画集 どこにいるのか ともだち/1993年由布院美術館発行 〉