差出人・高橋鴿子さんのこと

 高橋鴿(はと)子さんが初めて佐藤溪の作品に出会ったのは、1984(昭和59)年、50歳の時でした。それまでも有名な作品をたくさん美術館で見てきた彼女でしたが、その時の衝撃と感動はあまりにも大きく、今も忘れられないそうです。
 佐藤溪の作品に魅せられ、美術館まで創ってしまった鴿子さん。そんな彼女の人となりを、少しだけご紹介いたします。
 
 高橋鴿子さんは、1934(昭和9)年に三姉妹の三女として誕生。東京の飯田橋で育ちました。戦中は母親の実家がある大分に疎開、終戦後はすぐ東京に戻ります。父のすすめで日本女子大学付属中学に入学しますが、同年秋にその最愛の父が他界。よく父に連れられて行った美術館にはその後も行くことが多かったそうです。高校では部活で絵を描いたり、人形劇をしたり、と聞くと、今の彼女の原点を感じます。
 大学を中退し、22歳の春結婚。大分県別府市で新しい人生が始まり、一男一女の母となります。一見普通の主婦に見えましたが、油絵や染色、陶芸を習ったり、人形浄瑠璃文楽に熱中し「九州文楽同好会」を主宰したりと、好奇心旺盛で活発な女性となっていきました。中でも旅が一番の趣味で、外国に一人旅する強者です。理解あるやさしいご主人のお陰、だそうです。
 
 そんな一介の主婦だった鴿子さんが美術館館長となる、その転機が“佐藤溪”でした。会ったこともない早逝で無名の画家を世に送り出すことになったそのいきさつは? どうぞ、この一連の「溪さんへの手紙」を読んで下さい。溪さんへの手紙は、鴿子さんがさまざまなメディアに綴ったエッセイをまとめたものです。

〈管理人/行重〉