溪さんへの手紙 2

 溪さん、あなたは詩「ともだち経」の中で、「どこにいるのかともだち」と、何度となく問うておいでですね。私は「どこにいたのか溪さん」と、あなたのさっぱり判らない足跡を追って、今、放浪の旅に出ています。
 由布岳を仰ぐ由布院盆地の真中に、あなたの絵と詩にふさわしい空間として、由布院美術館を開館したのは1991年7月です。あっという間の3年間でした。
 それにしても溪さん、驚かれたでしょ。あなたの展覧会が東京ステーションギャラリーであるのですから。本当に良かったですね。あなたの絵を美術評論家の洲之内徹さんに紹介した麻生三郎さんは、ご自身で編集された、「帖面」17号(佐藤溪特集)のあとがきで、「まともに生き抜いた一人の人間の創造と生活が忘却されることを恐れる」と惜しんでいられます。これでより多くの方々に見ていただけますね。
 あなたが手紙やスケッチの裏に走り書きした誰とも知れぬ住所や名前を頼りに、刑事か探偵さながらに、その見知らぬ人を探し求めて旅をしています。そこにはきっとあなたを知るよすががあるはずですから。もはや町名が変わっているところが多く、役所で聞くことから始まり、糸をたぐるようにしてやっと目的地に着くと、既にその人は亡くなっているということがしばしばです。もっと早く行けば良かったと悔やまれてなりません。あなたのことを調べるのは、美術館を始めた私の務めでしたのに。
 あれは川口でのこと。2月の寒風に激しい雨も加わり、飛ばされそうになる傘を胸近く寄せ、びしょ濡れの足をふらつかせて歩いていた時、ふと、側にあなたを感じました。
「溪さんの2度目の旅は私の家から出発した」と言われる荒川の鹿島さんの情報で、あなたの絵を探しに世田谷区喜多見へ行った時は、太陽が私の見方、お屋敷の塀からのぞく梅の蕾が春は近いと告げていました。あなたのスケッチと重なる風景を楽しみながらの1日でした。
 あなたとよく似た妹さんと出雲へご一緒し、たくさんお話を伺いました。「神戸の家はバラックの借家だったけど、兄の手作り品がいっぱいの楽しい家でした。入口には、紐の先に鈴をつけた可愛いのれんと木彫りの表札。室内には、どれも兄が作った額やベッド、しゃれた机や椅子があり、洋服もボタンさえも自分で作って楽しんでいました」。「友達と二人で遊びに行った時、こちらはかまわないと言ったのに、一部屋だからと木賃宿に泊まりに行ってくれた、紳士的で気を遣う人でした」。「放浪中は傘の修理やいかけをして収入を得、移動は汽車やバス、放浪中でも結構規則正しい生活をしていたと聞いています。お酒は別ですけど」等々。
 やっと目的の人に逢えた時の喜びは一入です。あなたが亡くなったことさえご存じない方もあって、その方にとってはあなたこそ「どこのいるのかともだち」でした。
 ポナペ島での戦友、米屋の板倉さんはとてもお元気でした。あなたは戦地でも画材を工夫して、ずっと絵を描いていらしたそうですね。また、兵隊さん達がふかしいもに飽き飽きしていたら、いもそばを考案し振るまって大いに喜ばれ、温厚で皆に慕われていたこと等伺いました。
「私が放浪のきっかけを作った」とおっしゃる出雲出身の画家、秦辰男さんを大阪、豊中のお宅にお訪ねしました。あなたを誘ってまずは米子までの旅費を持って出掛け、あとは野宿したり似顔絵で稼ぎながら、京都まで行ったと、苦労しながらも楽しかったことを生き生きと話されました。
 京都時代、自由美術研究所の時のお友達、抽象画家の長野誠之助さんは、今も京都にお住まいです。「或る日、一緒に絵かきの友人の所へ行った時、私がその友人のスケッチをパラパラと見ていたら〈本人の許可なくそんなことをしてはいけない〉と大変叱られました。本当にそうだと今でも肝に銘じています。とても純粋で潔癖な方でしたよ」と、お優しい澄んだ目でおっしゃいました。
 終戦後すぐに「出雲文芸社」をお仲間と始められた松江の詩人、松田勇さんのお話から、二十代のあなた方が戦地から戻り、芸術や文学への熱い想いをいっきに燃焼させていらした様子が手に取るように解りました。
 かえすがえすも残念なのは、出雲時代の一番の理解者で、ご本人も絵を描いておられたお医者さまの原徳衛門さんと、親友で詩人の大谷従二さん、小説家の西山尚夫さんが亡くなられていたことでした。原さんの弟の原重夫さんは、「兄は佐藤さんのことを、こんな人はめったに出ないと、絵を高く評価していたけど、私にはさっぱり解らなくて」と、笑ってお話になりました。「詩文学」という季刊誌の中で、大谷さんはあなたを偲んで、「彼は人間社会の中の一つの高貴な宝玉であった」と、最高の賛辞を贈っておられます。あなたが旅先から立ち寄って、西山家に預けていった絵やいろいろなものは、引っ越しの時、始末に困ってお焼きになったと、今は病で臥せっておいでの奥さまのお話でした。無理からぬことです。あなたの絵は他でもよく焼いたとか捨てたと聞きます、残念です。それでも900点は残っているのですから、短い間によく描かれたのですね。
 自由美術家協会の長老、井上長三郎さん、末松正樹さんのお宅へもお邪魔して、いろいろ教えていただきました。お二人とも今度の展覧会をとても喜んでくださいました。
 あなたはクラッシックのコンサートの解説をし、詩人で画家、体格は良くてハンサム。シャツに絵を描いて着る等、かなり目立つ存在で、当時島根ではそれなりに有名になっていたそうですね。皆さんのお話からは作品の人物に見られる、妖気や怨念じみたものが見えてきません。あなたを知る人は口々に「明るく優しい人だった」と言われます。あの不可思議な凄さはいったい何処から来るのでしょう。弟さんは軍隊で相当にいじめられた、そのせいだと言っておいででした。魚がかわいそうだからと魚釣りさえしなかったあなたにとって、殺戮が当たり前の戦争体験は、かなり苛酷なものだったでしょう。それに加えて女性への深い想い、あるいは悲しみが秘められているように思えてならないのですが、いかが。
 私はあなたの絵が好きです。詩も好きです。でもあなたのことが果たして好きかどうかは疑問でした。今はわかります。前に感じていたあなたとははっきり違ってきました。詩の中に、あの心安らぐ風景画の中に、あなたの純粋さを強く感じてはいましたが、大酒呑み、警察沙汰もあったという事実は、負の印象を免れませんでした。でも、これを払拭するに充分な、沢山の良い話を聞いて、好印象の佐藤溪になりました。これはとても嬉しいことです。
 今度の旅の成果は、あなたのことをより知り得たこと、新しく詩や絵が見つかったこと、年譜の空白がいくらか埋められたこと等々です。その上、あなたを通じて多くのともだちも得ました。特に、90才になられるその名のように美しい国分春野さんと、そのご一家には大変にお世話になり、良い出逢いでした。
市役所や図書館、食堂、美容院、八百屋さん、その他数えきれない方々のご親切に支えられての追跡旅行でした。時には何かに間違えられたのか、大声で追い返されたこともありましたけど。
 お年を召されたあなたのおともだちの方々にまたお目にかかり、もっと沢山のお話を伺いたいと思っております。その向うにあなたがいるのですから。
 この旅はまだまだ続くでしょう。もう春です。今日の風は暖かく、そっと私の頬を撫でます。「おや、そこにいたのか溪さん」。

〈 高橋鴿子記 出典:東京ステーションギャラリー佐藤溪展図録/1994年(財)東日本鉄道文化財団発行 〉