佐藤溪(写真/モノクロ)
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佐藤溪について

昭和の時代に、全国を放浪しながら絵を描き詩を詠んだ、放浪の詩人画家・佐藤溪。
ここでは、溪の生い立ちから、絵画制作にすすむまでの経緯、そして信念・心情を垣間みたいと思います。

 

 

        

 

 

 

 

 

 

生い立ち

波乱万丈の人生を歩んだ佐藤溪の、生い立ちから晩年までを、文章にまとめました。

 

佐藤溪は、1918(大正7)年、広島県安芸郡熊野町に生まれました。本名は忠義(ただよし)。六男二女の一番上の長男でした。実家は元来熊野筆の製造卸をしていましたが、のちに名人と呼ばれるほどの釣り好きの父親が、筆の製造を釣り竿の製造に切り替え、同時に一家で東京に移り住みました。

忠義は小さい頃から絵が好きで、小学校で図工の成績が満点でした。一時は小石川工業学校の機械科に入りますが中退し、川端画学校に学びます。

「若き日の自画像」  鉛筆/紙 

そのうち日中戦争が始まり、21才で徴兵され中支へ。太平洋戦争時には南洋へ送られるなどして、27才までその青春の大半を戦地で過ごします。ポナペ島など戦争末期の南洋は、玉砕の相次いだ激戦地でした。後の『小伝』という詩の中では、「兵隊ではひでェ目にあひ」と書いています。

復員後は、島根県出雲市に疎開していた家族の元に落ち着きました。この頃は、詩人になることを目指して詩作に精を出します。出雲市の図書館で詩稿の展覧会も開いています。“溪(けい)”はこの時につけたペンネームです。宮沢賢治を敬愛していたようで、その影響を受けた作品が数多く見受けられます。しかしやがて、小伝にも書いているように「主として面倒くさい小説なんか書かなければ食えないことを理解」して「すこしはましな画業に専心」するようになり、自由美術家協会展に作品を送るようになります。

そして1948(昭和23)年、初入選をきっかけに東京に移り住みます。 京橋の公園に伝説的な箱車住まいを始めるのは、上京後まもなくのことだったようです。

箱車の記事/朝日新聞(1949年5月4日) 

井上長三郎が、当時の雑誌に溪の箱車での様子を描写しています。「それは二坪たらずの車のついた小屋である。彼に云わすと、夏はプラタナスの蔭に、冬は日当たりのいい斜面へ、そして美しい風景をアトリエから展望する。(中略) 彼は天真爛漫、子供の如く得意である。空襲や火事の際は家財とともに逃れる。」(無名作家点描「アトリエ」1949年7月号) 珍しがられたのか、朝日新聞にも紹介記事が出ました。その切り抜きは佐藤の遺品の中に残っていました。箱車の中は、手作りの額やテラコッタなどで楽しく飾られていたそうです。

1949(昭和24)年には、森芳雄、山口薫、鶴岡政男らの推薦により自由美術家協会会員となります。美術団体の展覧会に参加したり個展を4回も開催したりと、画家・佐藤溪の最も華やかな一時期といってよいかも知れません。

しかし一転、1950(昭和25)年から、死に至る10年間は、佐藤生涯の中でもっとも謎の多い時代です。京都の大本教から一軒家をあてがわれ亀岡に住んでいたり(本人自身が信者だったわけではないらしい)、自由美術家協会もそのうち退会してしまいますが、理由は先輩と喧嘩をしたからとか女性絡みで事件を起こしたからとか、その真相は不明です。

家族に宛てた手紙/佐藤溪直筆(1957年4月20日) 

亀岡の後は神戸に移り住みますが、ここでの生活もよくわかっていません。ただ、絵を描き続けていたことは確かで、1952(昭和27)年には大阪で個展を開いたり、島根新聞にスケッチと文の連載を出したりしたことが知られています。また、この時代には自らを“芸術教の教祖”と名乗ったりもしていたようです。

そして1954(昭和29)年10月に関東に戻り、翌年の春から2年にわたる長い放浪の旅に出ます。似顔絵描き、易者、傘直し、鍋の鋳かけなどをして、道中の旅費を稼ぎながらの旅だったようです。

放浪地図/佐藤溪直筆 

その後、改めて沖縄から北上する長い放浪もしていますが、ついに沼津で脳卒中の発作を起こして倒れたのが1959(昭和34)年の秋のことでした。連絡を受けた父親が引き取りに行き、両親と弟たちが住む大分県の由布院へ運ばれました。母の看病を受けながら自宅療養を続けましたが、翌年の1960(昭和35)年12月30日に息を引き取りました。享年42歳。

 

参考文献:東京ステーションギャラリー「佐藤溪展図録」/(財)東日本鉄道文化財団発行

 

 

 

 

年 譜

主な出来事を時系列にまとめました。

 

 
 大正 7年(1918年)  
  3月31日、広島県安芸郡熊野町にて熊野筆の製造元である父義清、母ふじの長男(八人兄弟)として生まれる。本名・忠義、他に溪、溪山人、忠石、教祖などの号を持つ。
 昭和  3年(1928年)10歳
  12月1日、東京市小石川区駕籠町尋常小学校に転入。
 昭和  4年(1929年) 11歳
  3月、同校を卒業。
 昭和  7年(1932年) 14歳
  東京都小石川区小石川工業学校機械科、卒業。
 昭和  14年(1939年) 21歳
  1月4日、入営。
  10月、中支派遣。
 昭和17年(1942年) 24歳
  11月5日、除隊。
  12月、微用(満州四平街二三八部隊軍属)。
 昭和18年(1943年) 25歳
  11月19日、応召(西部第二部隊、独立混成第五連隊)。
 昭和19年(1944年) 26歳
  2月14日、ポナペ島上陸(独立歩兵第三四五隊大隊)。
 昭和20年(1945年) 27歳
  12月27日、召集解除。
  復員となり、浦賀に上陸する。
 昭和21年(1946年) 28歳
  1月、一時家族の住む、島根県出雲市大津町明休に落ち着く。同人雑誌:詩文学を発行する文化団体、出雲文藝社に参加。
 昭和22年(1947年) 29歳
  5月、画家仲間と結成した緑蒼会第一回洋画展(出雲市)を開催。
  8月、個展を出雲市物産館にて開催。
 昭和23年(1948年) 30歳
  10月、第十二回自由美術家協会展に初入選。
 昭和24年(1949年) 31歳
  3月、森芳雄、山口薫、鶴岡政男などの推薦により自由美術家協会会員となる。
  5月、新日本文芸会会員となる。
  6月、第三回美術団体連合展に《運河》《風景》を出品。
  7月、個展を銀座ミモザにて開催。
  8月、美術団体GOMYの創立運動に参加。
  9月、GOMY美術家たすけあい運動の創立委員長となる。
  10月第三回自由美術家協会展に《裸婦》《風景》を出品。
  個展を銀座ミモザにて開催。
  11月、個展を京橋図書館にて開催。
  個展を新宿内外タイムズ社にて開催。
 昭和25年(1950年) 32歳
  2月より6月まで大本教の機関誌『愛善苑』と『海潮』の表紙を担当。
  5月、第四回自由美術家協会展に《風景》《蒙古婦人像》を出品。  
  自由美術家協会を退会。
 昭和26年(1951年) 33歳
  8月、島根新聞にコラム「真夏の画帳」(スケッチと文)を連載する。
 昭和27年(1952年) 34歳
  11月、茶室ドガ(大阪道頓堀戎橋北詰西入)にて個展を開催、《弁財天》《黄鶴桜上にて》《茶館にて》等を出品。この頃、神戸市茸合区雲井戸通に住む。
 昭和29年(1954年) 36歳
  10月、この頃埼玉県川口市青木町に住む。
 昭和30年(1955年) 37歳
  4月2日、東京を出発点として第一回目の長期の旅にでる。
  5月、第6回全日本画人連盟展に会員として《自画像》《爐辺屛風》《御茶席襖絵A》《御茶席襖絵B》《御風呂襖風》を出品。
 昭和31年(1956年) 38歳
  4月、この頃東京都荒川区尾久町に住む。
  第二回目の長期の旅にでる。
 昭和34年(1959年) 41歳
  秋、旅先の沼津にて脳卒中のため倒れる。
 昭和35年(1960年) 42歳
  大分県湯布院町の両親のもとにて永眠。
 昭和38年(1963年)
  6月、佐藤溪遺作展がサイトウ画廊(大分市)にて開催される。
 昭和39年(1964年)  
  『帖面』第17号(麻生三郎編、帖面舎)に「佐藤溪遺稿」が掲載される。
 昭和57年(1982年)  
  1月、『芸術新潮』1月号(新潮社)「気まぐれ美術館(洲之内徹」の中にて紹介される。
  9月、佐藤溪遺作展が府内画廊(大分市)にて開催される。
 昭和59年(1984年)  
  4月、大分県湯布院町に佐藤溪美術館開館。
 昭和61年(1986年)  
  1月、『芸術新潮』1月号(新潮社)「気まぐれ美術館」(洲之内徹)の中にて再び紹介される。佐藤溪遺作展が現代画廊(東京銀座)にて開催される。
 昭和63年(1988年)  
  3月、「さらば気まぐれ美術館」(洲之内徹著、新潮社)に掲載される。
 平成  2年(1990年)  
  11月、移転準備のため、佐藤溪美術館閉館。
 平成  3年(1991年)  
  7月、象設計集団の設計による、由布院美術館が新築開館。旧佐藤溪美術館より移管した全作品が常設展示の核となる。
 平成  4年(1992年)  
  8月「アートフェスティバルゆふいん」にて「佐藤溪の世界」が開催される。
本年譜は「佐藤溪詩画集、どこにいるのかともだち」(由布院美術館)の略歴を参照して作成した。
     

参考文献:「佐藤溪詩画集どこにいるのかともだち」/由布院美術館発行

 

 

 

 

 

佐藤溪(写真/モノクロ) 

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放浪地図(一部)/佐藤溪直筆